自我(エゴ)とは何か?「私」という錯覚の消滅=目覚め

自我(エゴ)とは「私(という個人)がいる」という妄想的思考から生まれる一連の感覚(錯覚)のことです。
しかし、エゴ・自我という言葉だけはよく知られているものの、誤解されていることも多いです。
目覚めにおいて避けては通れない非常に大事なポイントであるにも関わらず、正確に理解されていないケースが多く見られるため、この記事で自我(エゴ)の基本的構造についてまとめておきます。
- 自我(エゴ)の基本的構造
- 自我がどのような仕組みで人生に問題をもたらしているか
- 自我から解放されるために必要なこと
これを理解しておくことで、これから目覚めの道を行く方も、間違った方角に迷い込むことなく進めると思うので、ぜひしっかりと理解されてみてください。
そもそも「自我/エゴ」とは何か?

自我(エゴ)という言葉は誤解されている
まず一般的な「エゴ」という言葉の理解は誤解されていることが多いことを述べておきたいと思います。
どういう誤解かと言うと、
エゴという言葉は、その人の性格の中にある「自己中心的な一面」を指して使われることが多いということです。
「あの人はエゴが強いよね」
などのような使い方ですね。
しかしこれは正確な解釈ではありません。
というのも、これは「エゴ」のことではなく「エゴイスティック(自己中心主義)な性質」についての説明だからです。
エゴというのは直訳で「自我」のことです。
「自己中」のことではなく、この「自己そのもの」のことをエゴ(自我)と言います。
そしてこの自我とは「私という個人がいる」という感覚(錯覚)のことです。
自我(エゴ)とは「私という個人がいる」という感覚・錯覚のこと
例えば、生まれた赤ん坊には「私という個人がいる」という感覚が全く(あるいはほとんど)ありません。

そこから、

「僕」「私」という個人がいるんだ!
という感覚が芽生えてくることを私たちは「自我が芽生えてきた」と表現しますね。
ここで芽生えてくるある種の「感覚」のことを「自我(エゴ)」と呼ぶと理解すると良いかなと思います。
さらに言うとこの自我は
「私」と「私以外(外界)」が分かれているんだ!
という感覚をもたらします。

これによって自我は「分離」という世界観もセットで作り出します。
この「分離感覚」のせいで、世界では争いが絶えない、という仕組みになっています。
なぜなら「私」を「外敵(私ではないもの)」から守らなければいけない!という感覚が不可避的に誘発されるからです。
そのため、この「個人感覚」「分離感覚」の消失、つまり自我感覚の消失が目覚め・悟りである、と表現することもできると思います。
では次に、
- なぜこの「自我感覚」が生まれてくるのか?
- どのようなメカニズムで発生してくるのか?
について見ていこうと思います。
「私」という感覚が生まれるメカニズム
「私」という考えから生じる錯覚
自我(エゴ)・・・つまり「私という感覚」は、思考(考え)から発生してきます。
「私という個人がいる」という思考です。
つまりこの自我というものは「考えによって生まれている錯覚(架空の感覚)」なので、実体はなく存在していません。
これを感覚的に理解してもらうために、一つの例え話を出したいと思います。
ある女の子が、ぬいぐるみに「テディちゃん」という名前をつけ、とても大切にしていました。
女の子「テディちゃん、テディちゃん・・・今日も可愛いね。」
そこへお母さんがやってきて言います。
お母さん「そのぬいぐるみももうボロボロで汚くなってきたわね。そろそろ捨てなきゃね。」
女の子「・・・え?なんでそんなひどいこと言うの!?テディちゃんのことが可哀想じゃないの!?お母さんひどい!」
お母さん「テディちゃんなんていないのよ。」
女の子「いるもん!いっつも話しかけると、私に応えてくれるもん!」
お母さん「それはあなたの心の声でしょう?」
女の子「違うもん!だってテディちゃんは(以下略」
この女の子は「ぬいぐるみの中にテディちゃんがいる」という考えを持っています。
しかし、真実は「ぬいぐるみの中には誰もいない(実体がない)」ですよね。
でもこの女の子の中では「実際にいるような感覚」になっているであろうことは、なんとなく想像・共感できると思います。

この感覚は最初は弱かったはずなのですが、何度も何度も繰り返し思い込むことで「実際にいるような感覚」がするまでになったわけです。
ここまで来ると、もう「いない」とは思えません。
「いるような感じ」しかしないからです。
でも外野から見ていると、とてもよく分かると思います。
その感覚は錯覚であると。
先ほど、生まれたばかりの赤ん坊の例を出しましたが、私たちは徐々に「この身体の中に自分がいる」という考えを刷り込み始め、段々とそんな感覚がするようになっていく、という仕組みになっています。
これにより「すべてはひとつである」というワンネスの認識が失われ、恐れと生存競争の世界観が構築されていってしまいます。
これが「自我(エゴ)」が発生していく過程と、メカニズムの基本です。
「私の〇〇」という所有意識が自我を補強していく
この自我感覚が発生してくると、次の感覚に進みます。
それが「私の」という感覚です。
この感覚を持つことで、「私がいる」という自我感覚(分離感覚)は強化され、崩れにくくなっていきます。
まず分かりやすいところで言うと、物や人に対する所有意識が良いかもしれません。
- 「私の」コップ
- 「私の」お金
- 「私の」恋人
- 「私の」家
- 「私の」ぬいぐるみ
・・・などなど。
こうして自我は「私の〇〇」を増やしていくことで、「私が存在する」という感覚をより強固にして守ろうとしていきます。
その証拠に、こういった「私の〇〇」が「私のものではなくなる」ということをイメージしてみてください。
「私が薄れる・頼りなくなる感じ・不安になる感じ」が出てくるはずです。
これらは、「自我(私)が消失してしまう」という感覚です。
しかし実際には「私の~」というのはイメージであり、空想であり、事実ではありません。
例えば一つの表現をすると、そこにあるのはただの物体です。
ある意味「地球の物質」であって、「誰かの物質とは言えない」と言っても良いかもしれません。

私たちは中立の物(誰のものでもないもの)に「これは私のだからね!」という意味づけをするわけです。
土地などもそうですよね。
大地・・・誰のものでもない。
でも、「ここは私のエリアね!」と宣言するわけです。
子供時代、そういう主張がありましたよね。
「はいバーリヤ!だからここには誰も入っちゃダメね!」みたいな。
しかしそれは本人の空想・妄想です。
本当はどんなものも「私の」にすることはできません。
しかし「私のものにできた」と空想することで、安心する。
そして「私のものでなくなってしまう」と思うと、今度はその空想に苦しめられる、というわけです。
そしてさらに大切なのは、「私の〇〇」の所有者である「私」。
そもそもこれが空想の産物に過ぎないという点です。
しかし「私の〇〇」という空想をいくつも、いくつも、いくつも、重ねていくことで、所有者が存在するような感覚が強くなっていきます。

しかしどこを探しても、所有者という実体は見つかりません。
なぜならその所有者(=私)は冒頭でも述べたように、単なる思考(ある種の考え方)でしかないからです。
実体がありません。
(「自我には実体がない」という概念については別記事で詳しく解説していますので、参考にしてください。)
↓

こうして自我は「私の〇〇」を増やしていくことによって、『本当は存在しない架空の自己』を存在しているかのように見せかけるため、補強していきます。
そしてこの「補強(システム)」が崩壊していき、真ん中にいる「自分」が消えていってしまうことを、「死の恐怖」として感じていくようになります。
「私の」身体
ここまで「私の〇〇」という思考によって、自我がより強固に感じられ、疑えなくなることを見てきましたが、この「私の〇〇」の中でも特別に扱われているものがあります。
それが「私の身体」です。

これも「私の〇〇」という所有物の思考の1つですが、これの特殊なところは「私自身である」とも見なされていることでしょう。
少しフラットに、改めて見つめて見て欲しいのですが
「私の身体」
ということは
「私」と「身体」= 所有者と所有物
は別々だということですよね。
(少し分かりにくいかもしれませんが、「私の身体」ということは、身体を所有している「私」が別にいる、ということですよね?という意味です。)
しかし自我のメカニズムは「私の所有物も私の一部であり、したがって私である」と考えが土台となっているんです。
なので、「私の所有物」は「私自身でもある」と考えているんですね。
先程の「私の所有物」の例をもう一度出します。
- 「私の」コップ
- 「私の」お金
- 「私の」恋人
- 「私の」家
- 「私の」ぬいぐるみ
こうして眺めてみると、所有物はすべて「私ではないもの」ですよね。
しかし私たちはこういったものが破壊されると、「まるで自分の一部が破壊されたかのように」苦しみます。
(逆に私のものではないコップ、お金、恋人・・・etc は破壊されても苦しみません)
そして、身体の特殊なところは「自分の一部」どころではなく「自分自身が完全に破壊されるかのような恐怖」を生み出す点です。
なぜ身体だけこのように極端な恐怖を生むかというと、先程の「私の所有物」もすべて、「私の身体」が起点となって所有しているからです。
少し分かりづらいかもしれませんね?
ここはゆっくりと考えてみてください。
身体がなかったら、何も所有することができなくなってしまいますよね。
(だからこそ、死ぬときというのは、すべてを手放すことになる感じがして怖いわけです)
さらに言うと身体というのは、イコール「五感」ということです。

五感がなければ「身体」の存在すら認識できませんし、五感がなければ「私の所有物」の数々も認識することができません。
こういった理由で「私の身体」が完全に破壊されるということは、今まで構築してきた「私(=私と私の所有物たち)」がすべて破壊されるに等しい。
つまり「自我という世界の完全な終焉」に感じられてしまうということです。
逆に言えば、「身体は私ではない」という事実を思い出すことができれば(正常な認識に回復することができれば)、死の恐怖が消え去ることになります。
「私の」思考、「私の」感情も錯覚
ほぼほぼ自我の構築プロセスについては網羅できてきましたが、最後に「思考・感情」についても述べておきたいと思います。
この「思考・感覚」も「私の身体が私としか思えない」という錯覚を強力に支えているからです。
自我は
- 思考
- 感情
すらも「私の思考」「私の感情」として所有し始めてしまいます。
(なんでもかんでも私のものにしたいのですね)
これによって、
「”私が”考えている」
「”私が”苦しんでいる」
という感覚から脱出できなくなってしまいます。
(というか、脱出したくなくて構築するのですが)
しかしこれまで確認してきたように「私の〇〇(=私の所有物)」は私ではないので、浮かぶ思考・感情も「私の」ものではありません。

「え?そうかな、私が考えているとしか思えない」
と最初は思うかもしれません。
しかしこの記事ではぜひ「それが錯覚だということ」を理解してみていただきたいと思います。
例えば、今。
「ドーナツが食べたい」
という思考が浮かんだとして。

それは自動的に浮かんだのではないですか?
ということです。
これを体感的に理解するために、少しワークを挟んでみたいと思います。
いったん画面を見ることをやめて、今から5分間、何も思考を浮かばせないでみてください。
(浮かんでしまったら、終了してOKです。)
答えを先に言ってしまうと確実に浮かんできてしまうはずですから、浮かんでくるまでなるべく長く頑張ってみてください。
それでは、スタートしてください。
・
・
・
では、終わります。
試してみると、思考が浮かんできてしまったことが確認できたと思います。
(もし奇跡的に5分耐えられた方がいらっしゃったとしても、10分・15分・20分~と伸ばしていくとどうなるでしょう?)
ここで浮かんでしまった瞬間をよーく、反芻してみてください。
「勝手に浮かんできた」という感覚のはずです。
この「勝手に浮かんできた」という感覚をよく、掴んでください。
これを上手く感じられると、思考は勝手に浮かんでくる中立のものであって、「私の」ものではないということが少し理解できてくるはずです。
では、ワークを終わります。
これは、私たちの常識的観点とはかなり違っていると思います。
これまでの人生ずっと、頭の中に浮かぶ思考は「私のものだ」と思ってきたのですから。
しかしこれは目覚めていく上ではとても大切なポイントになります。
多くのマスターも「まずは思考を観察し、それを自分ではないと気づきなさい」と指導しています。
世界に自分本位な意味をつける自我
また、ここまで確認してきたことは、「意味づけ」であるという表現もできます。
自我(エゴ)は意味づけの中でしか生きられないため、「知覚するすべての物事」に意味をつけます。
そしてそれは「私にとって~」という意味です。
ここで読む手を止めて少し辺りを見回してみて欲しいのですが、目に映るものすべてに意味が付けられていないか?という視点で見てみてください。
「これは私にとって〇〇」という意味がついていることが見て取れるはずです。
(これには「これは私にとってはあまり意味がない」という意味づけも含まれます)
これは「色眼鏡」を付けて、自分本位に世界を見ている状態です。

こうなると、私たちは世界を「ありのままに」捉えることができていないということが分かってくるはずです。

自己イメージ
これまでにまとめてきたような仕組みを使って、自我(私がいるという思考から始まる一連の思考体系)は最終成果物を生み出します。
それが『自己イメージ』です。
これは「私ってこういう人・存在」というイメージです。
私たちの中には以下のように、自分についての情報(=過去の記憶から来るイメージ)が膨大に詰まっていて、それが「私というイメージ」を構成しています。

これが自我(エゴ)を存続させ、そして「価値観」と「その価値観によるジャッジ」を生み出しています。
例えば・・・
- 私は人間である
- 私は脆弱な存在で死ぬので、守らなければいけない
- 私は正しい人間である(or 私は罪深い人間である)
- 私は〇〇が得意
- 私は優しい性格
- 明るい色が好きで、暗い色は好きじゃない
- 容姿はかわいい(or 可愛くない)
- 私は悪い母親(or 良い母親)
- 真面目
- ルールを守らない人は嫌い
- 物をハッキリいう人が好き(or 嫌い)
(その他多数)
これは適当に書いただけのもので人によって多岐にわたりますが、なんとなくイメージが伝わると思います。
例えば服を選ぶとき「これは私っぽい」とか思って選んでいます。
逆に「私っぽくないな」と思う服は、着るのに抵抗を感じますよね?
こういった感覚はどこからはじき出されているのでしょう?
それが「私ってこう!」というイメージです。
逆に言うと「自己イメージ」に変化があれば、選ぶものも変わってきたりしますね。
(だから人生では好みがゆっくりと変化していったりします。)
自我が生み出す人生の不和
自我があること(正確には自我を自分だと誤認すること)で、人生は不可避的に不和と問題が生じ、辛く苦しいものになっていきます。
なぜそうなってしまうのか?
自我はどのように人生の不和を生み出しているのか?
を見ていこうと思います。
(逆に言えば、自我から解放されることで、ここに書く不和からも解放されていけるということでもあります)
自我の根本原理「私を守らなければ」
自我の根本原理は「私を守らなければいけない」です。
ここで自分の人生、そして普段の生活を改めて振り返ってみてください。
すべて「私を守るために」やっていることではないでしょうか。
自我の人生とは、ただこれだけを死ぬまでやる人生だと言えます。
- お金を稼ぐ
- 健康に気を使う
- 友達に好かれようとする
- 恋人を作ろうとする
- 職場の人に気を遣う
etc…
すべて
「自分を守るため」
「自分に価値があると感じるため」
もしくは
「自分には意味がない、自分は消えてしまうと感じないようにするため」
にやっています。
これは「恐怖」ではないでしょうか?
「何かから逃げている」感覚です。
ですので、私たちの人生は目覚めない限り常に「恐怖」を土台に展開されていると言えます。
自我と自我はぶつかる
自我は「私を守らなければ」を第一にしている、ということを述べました。
ここで「何から」守るの?
という視点で見てみたいと思います。
それは「外界(私以外のもの)」から私を守るためです。

しかし、全ての自我がこの根本原理で動いているとどうなるでしょうか。
別の表現をしてみると、
『<自我>は<他の自我>が邪魔である』
という性質が不可避的に見えてきます。
なぜならみんな一番自分が大事で、自分を守りたいわけですから、
「私を優先しろ!」
「いいや私の方を優先しなさい!」
とぶつかり合いになるわけです。
これが分離の世界の特徴です。
「分離している」ということは「ぶつかる」ということです。
逆に「分離がない(すべてがひとつ)」ということは「ぶつかる可能性が0」ということです。
ですのでこの世界では「我が強ければ強いほど」疎まれ、他人から攻撃されますよね。
我が強ければ、他の自我からは目障りに映るからです。
なのでこれは引き寄せの法則とも関連があります。

自我の性質が強い人ほど、他人の自我から攻撃されます。
なぜなら「こいつは私の自我にとってとても危険だ!」と思われるからです。
ですので、あらゆる人間的な不和(友達、夫婦、親子の問題)や国家間の戦争に至るまでは、すべてはこの自我の「私だけを守らなければ(=私以外はどうでも良い)」という理念から来ています。
裏を返すと、すべての人が自我の洗脳から解放されないと、世界は変わらないということです。
どんなに政治や貿易やをこねくり回しても、すべての問題が解決することはないのは、ここに原因があります。
(一人ひとりの意識が目覚めていかなければ、結局大枠は、本質は、変わらないということです。)
自我は自分自身を常に攻撃する
ところで、自我は時に自分自身をも攻撃することがあります。
- 自己嫌悪
- 自己否定
- 自己批判
などですね。
これはいったいどういうことなのでしょう?
「私が一番大事」で「私を守りたい」が基本理念なのに、なぜこれが起こるのでしょうか?
これは少し分かりにくいかもしれませんが、ゆっくり整理してみますので、よくよく理解しようとしてみてください。
とても重要なポイントです。
(これを理解すれば、あなたの中での自己否定が終わっていく可能性があります)
まず、自我は何かを攻撃することで事態がよくなると思っています。
それは先程の「自分以外を思い通りにしたい」という性質から見ると分かりやすいです。
「あなた(もしくは出来事)のせいで、私は不幸になっているので。嫌なので、私の理想通りに変わってください」
こうして、すべてを外界(自分以外)のもののせいにする。
そうして、「なので私は悪くありません」という基本姿勢をとります。
これはあらゆることに見ることができると思います。
(ぜひ自分の普段の生活も振り返ってみてください。)
なので
理想通りではないとジャッジする
↓
理想通りにする
(理想通りに変えられなかったら不平不満を言う)
が自我のすべてです。
これしかやっていません。
そしてこれを、自分に対してもやっているだけなんです。
どういうことかというと、まず、自我は常に自分のことをジャッジし続けています。
そして、理想通りにいっていると判断している間は問題ないのですが。
(例えば私はとてキレイな人間だと感じられている間は問題ない、等)
『理想通りではない!』というジャッジがくだされると、自分への攻撃を開始します。
つまり、自分のことを否定して、(自分を自分の)理想通りに変えようとするわけです。
これは外界のことを「理想通りじゃない!」と否定し攻撃して、理想通りに変えようとするのと本質的には全く変わりありません。
その対象が「外界」→「自分」に変わっただけです。
なので自我としては、攻撃対象がなんであれ、良いのです。
「とにかく<対象>を否定して、自分の思いどおりにしたい」
というわけです。
こういったような性質から、自我は人生、そして他者と私に、すべてに不和(衝突と問題)をもたらしていきます。
なので私たちは自我(エゴ)から解放されないと(=目覚めないと)、人生では絶対に幸せになれないようになっています。
では、この自我(エゴ)からはどうやって解放されていけば良いのでしょう?
最後にそれをまとめていきたいと思います。
自我(エゴ)から解放されるためには?
自我から解放される(目覚める)ために必要なことは、
自我(エゴ=私という個人)は幻想であり、存在しない
と見破るだけです。
それだけで、終わりです。
なぜなら「存在しない」と分かった人は、自我によって操られることがないからです。
もしくは「操られている心は自分ではない」と理解があります。
なので、必要なこと自体はとても単純です。
しかしこの単純な理解に至るのがものすごく難しいから、多くの人が悟りを開くのが難しいわけです。
ではなぜ難しいのか?
それはエゴ(自我)の邪魔が非常に巧妙で気づきにくいからです。
自我を消そうとするのも自我
ここでよく出てくる発想が
自我を消そうとする
なのですが、これは自我の罠です。
なぜならそこに
「自我を消そうとしている私(自我)」
がいるからです。
ですので、「自分は悟った(目覚めた)と思い込んでいる自我」というケースは多分に発生します。
(もしくは「悟ろうとしている自我」も同様の事象です。)
自我が本当に消えていく時というのは、「消そうとしている私」すらもいない時になるのですが、それが「瞑想状態」と呼ばれています。
だからこそ多くのマスターが瞑想を指導し、思考から離れることを推奨しています。
(「自我を消そう」がそもそも自我発の思考だから、それすらも離れなさい。というわけです。)
そしてそれは「純粋な気づきだけがある状態」とも言えます。
瞑想と自我との関係
瞑想の詳細については、それだけで丸々1記事費やすほどの内容になるので、別途まとめる予定です。
なので、ここでは概要レベルのことを述べておきたいと思います。
瞑想というのは
「イメージ(幻想)が一切消えている状態」
もしくは
「イメージ(幻想)がイメージ(幻想)だと気づかれている状態」
になります。
(この2つは本質的には同じことです)
この状態において自我が幻想であり存在しないことを「直接的に認識する」ことで意識の変容が起きてきます。
(頭脳的な理解もある程度実践の役には立ちますが、「直接認識」でないと本当の変容には至りません。)
そしてこの直接認識が純粋な状態で起きてくるためには、その認識を阻害する思考(=幻想イメージ)がないことが必要になってきます。
そしてその直接的な認識が可能となっている状態を「瞑想状態」と呼ぶわけです。
なので瞑想を習慣として取り入れていくことは絶対的に必要になります。
しかし先程言ったように瞑想についての詳細は別記事にて詳しくまとめるつもりなので、ここでもうひとつ、日常的にできるレベルの実践のお話もしておきたいと思います。
その日常的にできる実践というのが「気づき」の実践です。
気付きによって幻想は消滅する
これも厳密には「動きながらする瞑想」に分類されるものなので、実は瞑想実践の一貫ではあります。
ただ、よく私たちがイメージする「座って静かに目を閉じてする瞑想」とは少し違います。

この座ってやる瞑想も目覚めるためには必須なのですが、それだけでは足りない、というか「気づきの実践」と併用していかなければならないのが実情です。
そして、この「気づきの実践」から始めていくほうが現代人としての私たちは取り入れやすいのではないかと思います。
では実際どのように実践していくのか、ですが
思考に気づいていく
ということになります。
この記事のおさらいですが、【自我(エゴ)】つまり「私という個人が分離して存在している」という感覚は思考によって生まれています。
なので思考の幻想性に気づいていくことが重要になります。
そのために、「自分の思考を観察する(=気づく)」という実践を繰り返していくと、幻想だという認識が徐々に生まれてくる、というわけです。
気づきには「幻想を消してしまう」効果があるからです。
気づきが幻想を消し去る
これについては、どういうことか分かりにくいかもしれないので一つ例え話を出します。
例えば、DVに悩まされている女性がいたとします。
その人は悩んではいるものの「私はこの人とやっていくしかない」と思い込んで我慢して生活していました。
そんな中月日が過ぎていきましたが、
しかしあるときに、気が付きました。
「ハッ・・・」
(なぜ私はこの人と生きていくしかないなんて思っていたのだろう?それは全く根拠のない私の考え・・・ただの思い込みじゃないの。
お父さんとお母さんに事情を話して頼っても良い、他にも世の中にたくさんいる別の男性パートナーを探したって良い、自分一人で気ままに生きていったっていいわ・・・本当は私は自由なのに、なぜ今まで気が付かなかったの?
よし、別れよう。)
このような気付きが「ハッ」の一瞬で彼女に起きました。
これによって彼女は自分の思考によって作っていた思い込みの幻想性を見破ることができました。
この例え話は、「会社を辞めたいのに辞められない人」とか「本当はやりたいことがあるのに無理だと思ってしまっている人」とか様々な例に置き換えても良いと思うのですが、注目して欲しいのは【気づきの力】です。
気づきによってこの人は変容しました。
そしてその変容は『気付きが幻想を消し去ったから』起きました。
「新たな考え方を発見した」のではなく、ずっと居座っていた思考が消えた。
「なぜ今までこんな妄想を信じ続けていたのか?」と幻想が消えたことによる認識の変化だと、伝わるでしょうか?
ですので、目覚めていくことにおいては・・・
「何かを新しく知る」のではなく「無知(思い込み)が消え去る」こと
これだけが必要なことです。
こんなように、気付きには幻想を消し去る力があると理解してください。
なので日常から
- 自分が何を考えているのか?
- 何を信じているのか?
- どんな行動を取っていて、その背後にはどんな思考があるのか?
などに気をつけることから始めていくことがまず一つ。
これが真の気づきへの準備体操になります。
しかし、これだけでは自我(エゴ)の錯覚を破るには至りませんから、
- 「私という個人」がいると思って生きていること
- そして「私がやっている」と思っている「私」とはなんなのか?
- いつも「私」という考えを作っていないか見張る
ということが必要になってきます。
いきなり「取り組み②」にいくのは難しい場合も多いので、まずは取り組み①から始めて、徐々に取り組み②に進んでいくのが良いかと思います。
まとめ
この記事では、「自我(エゴ)とは一体なんなのか?」について整理してきました。
最後に内容をまとめて終わりたいと思います。
- 自我(エゴ)とは、「私という個人がいる」という思考から生じる錯覚的感覚のこと。
- 自我感覚が確立されると「分離感覚(私と外界の区別)」を生み、恐れや苦しみの原因になる。
- 「私の〇〇」という所有意識が、自我を強化・維持する。
- 身体・思考・感情も「私のもの」として誤認されており、これが自我を強力に支えている。
- 自我の根本原理は「私を守らなければ」という恐怖ベースの動機である。
- そのため自我がある限り、人生には不和が生じることが避けられない。
- 自我から自由になるために必要なことは、「私という錯覚」に気づき、それを幻想だと”直接認識すること”。
- そのためには瞑想が必須となるが、本格的な瞑想に先立って「思考に気づく」実践から始めることがおすすめ。
長くなりましたが、真剣にここまで読んでくださりありがとうございます。
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