スピリチュアル的なカルマの法則の意味を解説。解消の方法についても

「カルマ」という言葉は色んな意味が混同されていて、誤った認識のされ方をされている場合が非常に多いです。
例えばよく聞くのは
「あなたが今不幸なのは、前世で悪いことをしたカルマ(罪)があるからなんですよ」
という使い方です。
これには誤りがありますが、その通りだとも言える部分もあります。
ここは非常に大切なポイントです。
なぜなら人はカルマによって縛られているので、そこから抜け出ることが必要であり、それが悟り(目覚め)だからです。
スピリチュアル的なカルマの法則の意味とは?
冒頭でも述べましたが、世の中ではカルマは誤解されているので、正しく認識し直す必要があります。
まずは正しく捉えましょう。
カルマとは、業のこと
カルマとは、「罪」のことでありません。
カルマとは、「業」のことです。
そして業とは、行為という意味です。
業とは「業務」の「業」だと言えば、業が行為のことであるのが掴みやすいかもしれません。
しかし、この「行為」もまた、正確に理解される必要があります。
ここで言う「業」が指す「行為」とは、行為の結果と潜在的な影響まで全て含めたものを指します。
少しむずかしく感じるかもしれないので、簡単な例で例えますね。
これは「慣性の法則」だと思ってください。
例えばあなたが車のアクセルを踏むという行為をしたとします。
そうしたら車は加速します。

しかし行為の結果はこれで終わりません。
あなたがアクセルを離しても車はしばらく動き続けてしまいます。

あなたがアクセルを踏んだ以上、この「しばらく動き続ける」というアクセルが引き起こした行為の結果をあなたは受け取るしかありません。
アクセルを踏んでそれで終わり。
ということにはどうしてもできないんです。
瞬間で即停止する。
つまり「行為の結果をなかったことにする」ことはできない、ということです。
この行為の潜在的な勢力が完全につけるまで尽きるまでを含めて「業」と呼びます。
さらに詳しく解説していきます。
「業」とは、行為+行為の潜在的影響
例えば「コップを落とす」という行為をしたとします。

自分がした行為は、「落とした」だけですが、それだけで事象は終わりません。
それが様々なことを「引き起こして」いきます。
コップが割れるかもしれませんね。
中身が入っていたらそれも溢れるでしょう。

カーペットが汚れて、濡れてしまいます。
乾くのにはどうやっても時間がかかるし、もしかしたら汚れが取れないかもしれません。
様々なことが連鎖して起こっていき、それが完全に尽きるのには一定の時間を要します。
慣性の法則ですね。
さて、ここまでは物理的な現象だけに着目してきました。
物理的な現象を見ただけでも、行為は様々な潜在的な影響を及ぼし、その影響が完全に消えるまでは時間がかかることが分かります。
しかし、これだけでは終わりません。
精神に及ぼす影響もあり、それを理解する必要があるからです。
そしてカルマが指すもので本来観るべきは精神的な影響です。
カルマ(業)の精神的な影響
例えば先の例で言えば、
「やってしまった」
と思ってしまうかもしれません。
もしそんな風に思ってしまうと、カルマ(業)が心に蓄積されます。

このネガティブな感覚はすぐには消えなかったりします。
(消えるまでの時間は、その人がこれまで心に積み重ねてきた業によって決まります)
さらに、人のものを壊したとかであれば、
「怒られるかも・・・」
「どうしよう・・・」
などの関連した思いも湧くかもしれませんね。
そして実際に責められでもしたら、トラウマになるかもしれません。
(責められる、ということも自分の行為が引き起こした慣性の結果です)

そうすると、その人は似たような状況に出くわす度に恐れを感じるようになったりします。
これが完全に尽きるのはいつになるのか分かりません。
(いずれは尽きるでしょうが)
これが業が生み出す「潜在的な影響」だと言うと、理解できてきたでしょうか。
しかしこれはまだカルマのほんの一例を理解したに過ぎません。
カルマの全体像は理解していません。
なぜなら、この責める側の人も「カルマ(業)」に操られて責めているからです。
次は、それを理解してみましょう。
人はカルマ(業)に操られて行動してしまう
例えば、人は何かを批判したり、悪口を言ったりしますね。
しかし先に説明したように、行為は、それだけでは終わりません。
潜在的な影響を残します。
実際に実感してみましょう。
(そうすれば、カルマに操られにくくなりますから、体感して理解してみることを強くおすすめします)
ハンカチでもティッシュでも良いので、用意してください。
それを
- 乱暴に投げて置く
- 丁寧にゆっくり置く
の2種類を試してみてください。
そうすると、それぞれの行為の後で、心の感覚が違うことを感じられると思います。
①は心がザワザワして、落ち着かない感じ、攻撃的な感じがすると思います。
②は心がじんわりして、暖かく、落ち着いている感じを感じると思います。
こうして、些細な物の扱い方ひとつ取っても、心に与える影響(つまりカルマの蓄積)があります。
しかも私達はそれに無自覚に生きてしまっているということです。
ハンカチひとつ取ってもそうなのですから、例えばこれが「人を罵る」とかそういう行為であれば、どれほど強力に心に作用するか分かりますか。

発する言葉はその人の心に影響を与え、さらに似たような言葉・行為を繰り返しやすくなっていきます。
そうすると、その人の人生はそのような方向に向かっていってしまうということです。
「考えたくなくても、ネガティブなことを考えてしまう」
「もう怒るのはやめよう。・・・そう決めたはずなのについ怒ってしまう」
など覚えがありませんか?
これは、
自分が過去に心に蓄積させた業(行為)があり、その潜在的な影響力がまだ残存していて、ここから引き起こされてきている。
ということです。
なので、湧き上がってくる思いは「自動的」なんです。
カルマ(業)による自業自得(因果応報)
「自業自得」という言葉があります。
この言葉は、悪い印象がついてしまっていますね。
しかし本来は、フラットな意味です。
「自分がした行為の結果(業)は自分が得ることになる」
という意味です。
良いものも悪いものも平等に、です。
(冒頭の「車のアクセルを踏んだら、その結果は必ず受け取る必要がある」を例にすると分かりやすいと思います)
これは法則なので、「機械的」に、「平等」に、「必ず」作用します。
ここで一度自分の日常の行為を振り返ってみてください。
カルマ(業)によって生まれていることが見えてくるものがありませんか。
例えば、お酒に溺れるようになったのは、強いストレスを感じたからで、それはもはや自分の心の(業)になっているかもしれません。
砂糖を何度も口にしすぎると、欲しくて欲しくてたまらなくなります。
それは「操られている」とは思いませんか。
自分がフラットに意思決定できていることなど、本当にあるでしょうか?
カルマから解放されるには?

カルマ(業)によって縛られている人生は、ある意味操り人形のようなもので、本来の意味での自由意志ではありません。
ここから解放されるには、どうしたら良いのでしょう。
これが「悟り」(スピリチュアルな世界では目覚め)と呼ばれているものになってきます。
裏を返すと、悟っていない場合は必ずカルマに操られて生きているので、悟らなければカルマから逃れることはできません。
悟りとカルマ(業)の関係
カルマがどのような仕組みで成り立つかと言うと、そこに「私(我)」があることが前提になります。
冒頭で述べたような例においても
「(私が)やった」
という感覚があるがゆえに、心に影響を与えるわけです。
悟りとは「我が消えること」ですが、
我が消えるとどうなるかというと、「カルマの保持者(集積点)」が消失してしまうということが起きます。
これにより、これまで積み重ねてきたカルマも消失しますし、これからカルマが生まれることもなくなります。
逆に言うと、悟っていない場合は「(私が)やった」という感覚から逃れることが絶対にできません。
なぜならその人が「私(我)がある」と強く信じ切ってしまっているからです。
人はその人が信じ込んでいることに逆らえませんから、必然的にカルマが生まれ続けてしまいます。
そのために、日々新たな業の蓄積があり、業が完全に尽きるということが決して起きないということです。
なので、カルマ(業)が完全に消えるためには、その保持者である「我」が消失するしかないということです。
ただし、悟りたくともすぐに悟りが起きないということが多々あります。
なのでその場合は少しでも、
- ネガティブな業を避け、ポジティブな業を入れること(人に優しくする等)
- 余計な業を作りすぎないよう注意すること
で比較的楽な人生にすることができますから、それを意識していくのが良いかと思います。
また、それが悟りのために役にも立ちます。
(なぜなら、余計な業が少ない人の方が雑念が少なく思考が静かで、真実に気づきやすいからです)
「私がやった」という感覚の恐ろしさ
さて、ここでひとつ強調しておきたいことがあります。
「(私が)やった」という感覚は、とても怖ろしい感覚だということです。
なぜなら、私がやったという感覚を抱いてしまうと、「責任を取らなければいけない」という感覚が同時に生まれるからです。
これが「罪」の感覚であり、「恐れ」の感覚です。
これがエゴ(我)の成り立ちです。
このようにしてエゴ(我)は維持されているシステムなんです。
(そのためエゴは「私がやった」という感覚を感じたがります。)
「私がやった」という感覚がなくなった状態が、悟りですが、それはある意味物凄い解放感をもたらします。
私ではなく、「全体(宇宙)がやっている」もしくは「ただ現象が起きているだけ」と認識するようになるので、いつも罪の感覚がありません。
これは赤ん坊の状態を思い浮かべると、連想しやすいかもしれません。

彼らは「自分」という感覚がないがゆえに、自分が何をしたとしても幸せな境地にいられます。
それはとてもピュアで、無垢で、美しいことです。
「前世」とカルマの関わりについて
最後に、
世の中でよく言われている「それはあなたの前世のカルマだよ」というお話について触れておきます。
おさらいをすると、
カルマは罪ではなく、単なる「行為とその潜在的影響力」でした。
なのでその人が前世で悪いことをしたから、その罰を取らされているとかそういうことではないことが分かってくると思います。
しかし、
先ほど「自業自得」という言葉を取り上げました。
(自分がやった行為は自分が得ることになる、という意味でした)
つまり前世で(前世であろうとなんだろうと過去に)自分が行った行為は、結局その潜在力が尽きるまで自分が受け取り続けることになるということです。
例えば、前世で「人のせいにする」という行為(業)ばかりしてきた人は、その潜在的性質(因果)を今世でも受け取ることになり、それによって人生が展開されていってしまうということです。
子どもたちを見ても、我が形成されてくるくらいの年齢になると、その子個人個人の性格的欠点が浮かび上がってくることが見てとれると思います。
それはそう育てられたわけではなくとも、明らかに生まれつき持っているものがあります。
(乱暴な子、引っ込み思案で怖がりな子、色々な特徴が浮かび上がってきます。これには遺伝的なものや様々な因果ももちろん関わっていますが、それだけでは説明がつかない先天的なものが明らかにあります)

例えば上の画像の子は、生まれながらにして乱暴しやすい性質を持っていたと仮定しましょう。
その「業」をそのままにしておくと、人生展開に様々な困難を生み出していってしまうことが観えてきます。
そしてそれが新たな「業」を生み、次の生にも影響を及ぼしてしまう・・・というループ(循環)が起こっていきます。
なのである意味で言えば、すべての人がこのように自分が過去に行ってきた「業」を破れるかどうかという運命を背負っています。
私も、あなたも、この地上に生きるすべての人が、協力してこれを破っていく必要があります。
まとめ
今回はカルマについてお話しました。
まとめると、
- カルマとは「業」のことである
- 業とは「行為+行為の潜在的影響力」まで含んだことを言う
- 行為は心に潜在的な影響を残し、それが次の行為に繋がって人生を作っていってしまう
- 業によってすべての人が縛られているが、そこからの解放が悟り
- 「(私が)やった」という感覚は恐ろしいものであり、そこからの解放なくして安らぎはない
このような内容でした。
カルマについての誤解が解け、正しく理解し、それを乗り越える一助となることを祈っております。
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